渋沢栄一は、明治から大正にかけて、
日本経済の黎明期に、経済基盤となる数々の産業・企業を設立した偉人で、
また、そのスタンスにおいて、他の財閥系企業に見られるような「私企業」の形態とは一線を画し、
いわゆる「公器」としての産業・企業を育成したという点が秀逸である。
その渋沢栄一が自らの行動の拠り所としたのが「論語」である。
「渋沢栄一 論語の読み方」
という本には、論語の各篇に対する渋沢栄一自身の解釈と、
その実践・人物評(当てはめ事例)が書かれてあり、大変参考になる。
【視・観・察の人物観察法】
その中でも、納得性が個人的に高かったのが、これである。
人物を見極める際に、
「視る(みる)」 ⇒その人の行為内容
「観る(みる)」 ⇒その人の行為の動機
「察す」 ⇒その人の行為の落ち着くところ
という3点でみれば、間違いが無い、というもの。
最初の「視る」については、当然多くの場合で考慮されているが、
2番目の観る、3番目の察す あたりが特に重要になろう。
例えば、ある管理職者をイメージして考えてみると、
目に見える行為自体は、マネジメントをしっかりし、人心も掌握して、成績も上げている
ということであれば、1番目の目に見える行為の面ではまず問題は無い。
但し、次の「観る」という段階で、その行為の源泉が「自分の出世・報酬アップのため」
だけであれば、その人の行為は本物とは言い切れない。
また、3番目の「察す」の段階で、
「その人が何に満足して生きているか?」をみることとなる。
おそらく、「キャリアモチベーション」のような概念だと思うが、
例えば、「金銭報酬」に満足する人か?、あるいは「仕事のやりがい・面白さ」に満足する人か? など、
その人が仕事を通じて得られる満足のうちどこに軸足を置いているか?をみることになる。
私も、いろんな経営者・社会人・学生とお話する機会があるが、
「この人はどうかなあ?」
と探るときは、無意識にではあるが、概ねこんな視点を持って話していたと気づいた。
ただ、「人を見極める」というのは難しいことであり、
こういった観点で観るためにも、一定量のコミュニケーション量は必要であると感じる。